知のムダを使い切る! 『一般意思2.0』と『集合知とは何か』
今回の2冊は、でっかい話である。
19世紀につくられた民主主義というシステムを進化させる 『一般意思2.0』
そして、二十一世紀の「知」のカタチを問う、『集合知とはなにか』
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まず、『一般意思2.0』。
最近ではネットを使った直接民主制が話題になることがあり、
この書籍もその類のものと捉えられて批判されることも多いようだ。
だが、東が主張は少し違う。そんなに大きな制度改革をめざしてはないのだ。
実際、この本の主たる具体的な提案内容は、
テクノロジーの進化を使って、WEB上に顕れる「大衆の集合的無意識(=一般意思2.0)を可視化」して、政治の抑止力とする。
たったこれだけである。
たとえば、“ニコ生でのコメント付き放送のように、放送のタイミングで生活者の思いつきコメントが見えるようになる”というレベルの話。
250ページを超える本でありながら、筆者自身も認めるように「これだけ」なのだ!
この提案で、何を解決するのだろうか。
今の民主主義の中で、私たちは議員を選ぶことしかできない。
議員、官僚が法を運用して「実際にいろいろなことをする運用フェイズ(行政)」
には、直接的な影響力を持たない。
そこで生まれてしまう「運用フェイズでの民意との乖離」を解決するのである。
ここで、民主主義の進化に使われるのは、「知ってしまうこと(=認知)」の力。
人は、一度知ってしまったら、知らなかった時には戻れない。
「みんなが知っている」ということを知ってしまえば、無視できなくなる。
「みんなの意見がより詳しく、わかりやすく、自然と見えてしまう」
という環境をつくることで、政治家や官僚が、運用のフェイズで
民意を踏まえた活動を取らざるを得ないようにしようという作戦なのだ。
作戦の肝は、「ローコスト・オペレーション」。
この忙しい時代に、生活者に余計な負担をかけず、ネット上の日々のアクションを通じて、それを可視化するシステムをつくる。
それが、世の中の人たちの目に自然と見えるようにする。
東はこの本で、あえて戦略的に「これだけ」の話をしている。
その方が「リアリティが高い」と判断したのだろう。
そして、誰かが実際に、このアイディアを実現することを期待している。
残念なのは、具体の話が薄くてイメージが湧きにくいこと。
(上のニコニコ動画の例だと、作戦がうまくいかないように思える)
この東の発想のベースにあるのが集合知の考え方だ。
ルソーのいう、一般意思の概念は、集合知の概念とメカニズム(後述)と
“ほぼ同じ”、といっていい。
☆
「集合知」は、2013年9月号のハーバードビジネスレビューでも特集されている。
『みんなの意見は案外正しい(スロウィッキー著)』が話題になってしばらくたつが、クラウド、共創、コミュニティというテーマの盛り上がりとともに、集合知がもう一度話題になっているようだ。
西垣は、ここにも寄稿している。
『集合知とは何か』は、西垣のこれまでの情報学的な知見が、盛って盛って盛りまくられていて、読み応えがありすぎるぐらい(読むのが大変)なので、こちらから目を通してもよい。
なぜ、集合知が、再び注目されているのか?
西垣も、東(「一般意思2.0」の著者)も、同じことをいっている。
それは、「知」の主流である、専門知がうまく機能しなくなったことが明らかだから。
その背景には、社会の複雑化、それに伴う情報過剰と専門分化がある。
いまや専門家は、ものすごく細分化され、
タコつぼ化した領域を追いかけるので精いっぱいだ。
(これは体感的にもよくわかる。僕のような一般リーマンが、業務に必要な狭い領域の知見を学習しようとするだけで情報量は多すぎる。)
その一方、社会的な問題というのは通常複合的かつ統合的なものである。
つまり、狭い専門知では対応しきれない。
その専門知を補完し、統合する新しい形の知として、集合知は期待されているのだ。
(もうひとつの統合知のオプションとして、知識人モデルというものもある。
だが「どんな知識人も専門領域以外では一般人にならざるを得ない」)
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『集合知とは何か』では、集合知の驚くべき予測精度と、そのメカニズムが紹介されている。
メカニズムをざっくりいうと、
集合の人数が多くなればプラスに間違える人と、マイナスに間違える人が同じぐらい出てくるはずなので、結果としてプラスとマイナスが打ち消され、正解に近い値がでてくる、ということ。
これは、クイズ・ミリオネアで、たまたま会場にいた「オーディエンス」が高い確率で正解をだすのと同じ仕組みだ。
西垣は、「集合知は万能ではない」とはっきり言う。たとえば、正解のない問題に回答は出せない。
(実際、世の中には「どこに新幹線を通すべきか」とか「原発をどうするか」というように正解のない問題は多い)
その上で、このように言うのだ。
二十世紀は、専門家から天下ってくる知識が、「客観知」としてほぼ絶対的な権威をもった時代だった。(略)今後も専門知は、それなりに尊重されていくべきだろう。
とはいえ、二十一世紀には、専門知のみならず一般の人々の多様な「主観知」が、互いに相対的な位置をたもって交流しつつ、ネットを介して一種のゆるやかな社会的秩序を形成していくのではないだろうか。それが21世紀情報社会の、望ましいあり方ではないのだろうか。
僕も「今活用されていない、みんなの知を社会の役に立てる」ということには、
はげしく賛成!
☆
この二冊は、
これまで十分に使われてこなかった(ムダになっていた)大衆の知を、
知的資産として使いきって、社会を進化させていくための考え方
が述べられています。
でっかい話です。
「死にそうなぐらい時間がない」のでなければ、目を通すべき本だと思います。
今日は、ここまで!