アイデアの根

読んだ人に「得した」と思ってもらえるように、普段より一ミリだけ深く考えて書きます。ソーシャル、マーケティング、リサーチ、が主要テーマになる予定です。

隙間時間のためのベスト盤的読書

村上龍が「僕はベスト盤が好きだ」というのを読んで、驚いたことがあった。

当時僕は中学生で「レコードはアルバムトータルで聞くもの」と思いこんでいて「ベスト盤は邪道」と見なしていた。あの時は、同じレコード(LP)を、100回以上聞くほど時間があったのだ。

 

今でもアルバムで聞かないと「なんだかなぁ」と感じるアルバムもあるが、曲単位で聞くことが多くなった。デジタルで、サンプリングで、リミックスな今、アルバム単位で音楽を聞く方が少ない。

ベスト盤も好きです。

 

読書も同じかもしれない。140字になれた身には140ページの本ですら長すぎる!

今日は、そんなベスト盤的読書に最適な本を紹介したい。

 

では、読書において、ベスト盤とはなにか?

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知のムダを使い切る! 『一般意思2.0』と『集合知とは何か』

今回の2冊は、でっかい話である。

 

19世紀につくられた民主主義というシステムを進化させる 『一般意思2.0』

そして、二十一世紀の「知」のカタチを問う、『集合知とはなにか』

 

 

まず、『一般意思2.0』。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

 

 

最近ではネットを使った直接民主制が話題になることがあり、

この書籍もその類のものと捉えられて批判されることも多いようだ。

だが、東が主張は少し違う。そんなに大きな制度改革をめざしてはないのだ。

 

実際、この本の主たる具体的な提案内容は、

テクノロジーの進化を使って、WEB上に顕れる「大衆の集合的無意識(=一般意思2.0)を可視化」して、政治の抑止力とする。

 

たったこれだけである。

たとえば、“ニコ生でのコメント付き放送のように、放送のタイミングで生活者の思いつきコメントが見えるようになる”というレベルの話。

250ページを超える本でありながら、筆者自身も認めるように「これだけ」なのだ!

 

この提案で、何を解決するのだろうか。

 

今の民主主義の中で、私たちは議員を選ぶことしかできない。

議員、官僚が法を運用して「実際にいろいろなことをする運用フェイズ(行政)」

には、直接的な影響力を持たない。

そこで生まれてしまう「運用フェイズでの民意との乖離」を解決するのである。

 

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ドーナツとしての人格

あなたは平野啓一郎を知っているか。

僕は、ほとんど知らない。

平野は東大生の時に『日蝕』で芥川賞をとり、この時はものすごく話題になった。当時、選考委員であった石原慎太郎から、激しくダメ出しされていたのを読んで、「選考委員からここまで貶されて受賞するというのはどんなものだろう」と、文藝春秋を買って読んだ記憶がある。

それなりにおもしろかったように思うのだけれども、それ以降平野の小説は一冊も読んでいない。

 

そんな平野氏が「人間の基本単位を考え直した」のがこの本である。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

いつものように、この本を乱暴にまとめると、

個人(individual)の中には、

対人関係ごとに見せる複数の顔(分人:dividual)があり、

この分割可能な「分人」こそが人間の基本単位である、

となる。

 

話す相手によって、自分の対応が異なるのは、当たり前。

「たった一つの本当の自分など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、

すべて本当の自分」であり、人格とは「複数の顔」の集まりのことなのである。

 

この視点から考えると、

そもそも「アイデンティティの獲得」なんてものが求められるのは、

放っておくと人格なんて一つにならないから、とも言える。

 

人格とはドーナツなのだ。

中心には「仮想アイデンティティ」が、疑似的に想定されるに過ぎない。

 

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自分の頭で考えない! 思考のアウトソーシング

生産性の高め方

先日のブログで書いた「なめらかな社会とその敵」はちょっとしたブームになっているようで、昨日、代官山TSUTAYAでも専用コーナーをつくって紹介されていた。そこで筆者の清水健が過去に書いた書籍も並んでいて、普段なら絶対に買わないであろう「究極の会議」という本を、つい手にとり買ってしまった。
「究極」というネーミングとか、装丁の感じが「買ってくれ!」とのプッシュが強く、あまりにもビジネス書な感じだった。「なめ敵」を読んですぐというタイミング、そして業務における生産性向上に対する問題意識が高まったタイミングがあわさらなければ、絶対に、絶対に買わなかっただろう。しつこいけれど。
内容は悪くなかった。「いい議事録をつくることに集中し、議事録ドリブンな会議を行う」というもの。会議で実践することを考えると、これくらいシンプルなのがよい。
 
さて、僕の問題意識について。こちらが今回の本題。
僕のまわりでは、昨年ぐらいから加速度的に業務が忙しくなっていて、疲弊しきっている人が多い。
今の状況を乱暴に整理すると、「長引いた不況」による組織経営のスタンダード変化といえる。
①不況→②仕事単位当り利益率の低下→③社員数の減少、にも関わらず業務量は増大。ポイントは、仕事当りの利益率が下がると、社員は減るのに業務量は増えるということだ。そりゃ、忙しくもなるわ。
不況下で緊急措置として人員削減した企業は、仕事が増えても人を増やしていない。不況下での緊急措置だったはずのものが、すでにスタンダードになっているのだ。他の会社をみても、同じような状況のようだ。人口減少により縮小が予想される日本市場と、グローバル競争環境を踏まえると、すぐに人を増やすことは難しいと判断するのだろう。
ここで本質的な課題は「②仕事当り利益率の向上」にあるのだが、そんなことはみんなわかっていて、イノベーション、イノベーションとうるさいのはそのためだ。しかし、イノベーションとは本来的に簡単ではない(簡単にできるようならイノベーションではなく、すぐにライバルも実現し競争に巻き込まれ、利益率が下がる)。
僕たちホワイトカラーの「雪かき」労働者は、イノベーションを目指しつつ、「雪が積もる前」に生産性を高めて目前の仕事を推進しなければならない。やれやれ。
 
そのためにどうするのか? 
 
「思考のアウトソーシング」である。
 
今、僕たち(これを読んでるあなたも)非常に多くの時間をネット空間で過ごしている。何かを調べる時に検索するのが当たり前になっている。事実上、ネットが外部脳として機能しているということだ。岡田斗司夫によると、最近の若者には「自分の本音をネットで探してくる」という行動もみられるそうだ。「自分」というものはネット上にある、というこだ。これは、本当に驚くべきことなのだが「自分がいいたいことをネットから探してくる」という行動は、実際によくみられることだろう。
 
そもそもでいうと、「考える」にはまず言葉を使う。この言葉は過去の人たちが創りだしたものだ。自分だけしか通じない言葉に意味はない。(ヴィトゲンシュタインの私的言語論)。エスキモーには7種類の雪がある、といわれるように僕たちの思考は言葉の構造に支配される。また、僕たちが使う概念、定理もまた、あなた以外のだれかが創りだしたものだ。つまり、「考える」ということは、「自分以外の誰かがつくりだしたものをつかって、今の状況にふさわしい意味を導き出すこと」に過ぎない。そうであれば、「ネット上から今の状況で自分がふさわしいと思う発言を拾ってくる」ことと、どれほどの違いがあるだろうか。
僕たちは、「巨人の肩に乗って」いるのだ。隣人の肩の上にのってもよいだろう。どうせ隣人もだれかの肩の上に乗っているのだ。(もちろん、このブログが、だれかがどこかで言ったことの組み合わせに過ぎないことは、言うまでもない)
 
というわけで、目下「思考のアウトソーシング」について考えている。それがなぜ『究極の会議』に結びついたのかというと、思考のアウトソーシング先として①ネットワーク脳と②同僚脳、③自分の過去脳を考えていたからだ。
この②同僚脳は、Onlineではなくリアルな隣人の脳である。このリアルな脳の利点は、ア)対話できる、イ)同じ脳を継続して使えるので、説明の手間が省ける(「あの人ならなんて考えるだろう」と思った時に使える)、ということだ。 
 
ア)の対話は、特に重要。会議は、仕事における生産性低下の代名詞ともいえるが、これは参加メンバーが複数になるために話が脱線するからである。一人が議題に関係ないことをいって、さらにもう一人がそれを別の話にもっていって、ということがよくある。この「事前に思いもつかなかったこと」が連想によって引き出される、ということが重要な対話の機能なのだ(これを上手く使おうとしたのが、ブレーンストーミング。でもうまく実施するのは本当に難しい)。先日ニュースになっていたが、YAHOO!が在宅勤務を禁止したのも、対話のイノベーションを重視したからだ。アメリカのイノベーティブなデザインコンサルタント会社IDEOでは、ブレストを頻繁に行う。アイデアの開発に対話が重要だと考えているからだ。ここでは、アイデアは個人のものではなく、みんなのものと考えられている。同じくアイデアを重視する博報堂研究開発局の『気づく仕事』でも、「共同脳を使う」打ち合わせについて語られている。
 
というわけで、僕は普段は絶対に買わないであろう『究極の会議』を買った。今、僕はネットワーク脳と同僚脳の使い方を実験中である。
 
tanakata11
 

「なめらかな社会とその敵」 と 「評価経済社会」

「世界は生成するものであり、あなたは世界に参加しているのである。 (なめらかな社会とその敵 あとがきより)」
 
これからは、お金でなく評価をみんなが求める社会になる。
という岡田斗司夫評価経済社会が話題になって、しばらくたつ。
評価経済社会とは、評価がお金のように価値あるものとして流通する社会のことで、
twitterのフォロワーが100万人いるひとなら1億円を稼ぐのは難しくない。逆に、1億円を持っていてもtwitter のフォロワーを100万人にするのは難しい」 社会のこと。
 
これついては賛否あるが、今後の社会をとらえる「助線として使える」と思う。
 
岡田斗司夫がいうように、評価がお金以上の影響力を持つかどうかは別にして)SNSの浸透で、「評価」の社会的な影響力は確実に高まっている。
相対的に、お金の影響力は低下しているようにみえる。
実際に、評価をお金に換える仕組みである、食べログ、カカクコム、アマゾンは僕たちの生活の深くにインストールされている。
このように、少しずつ少しずつ「つながりが強化」され、「評価の影響力が拡大」する方向へ、社会は変化していくのだろう。
 
 
そう思っていたところで、清水健『なめらかな社会とその敵』を読んだ。
ここには評価経済を実体化して、社会をよりよく変えるためのアイデアが書かれている。
これがおもしろいのだ。
 
清水のなめらかな社会とは、国家と個人がなめらかにつながる社会である!
 
と、言われてもなんのことだかわからないですよね。 そりゃそーだ。
 
よりよい社会をつくるには、一人ひとりのポテンシャルを引き出して、社会全体の知性を高めなければならず、
そのためには、人をとりまく「環境の機能を高める制度、仕組み」が必要である。
それが、社会のつながりを強めた「なめらかな社会」という考え方であり、
伝播投資貨幣PICSY、伝播委任投票システムという制度である、
 
この本の内容を、ものすごくランボー、かつテキトーにまとめると、このようになる。(僕はこういうまとめは得意な方である)
 
内容についていうと、PICSY、伝播委任投票システムのところが紙幅がさかれていて、ここの「精緻なシミュレーション」を評価する人も多いようだ。
しかし、個人的には「よくわからない」というのが正直なところ。
精緻にシミュレーションされているが、「実現可能か」と問われれば、そうは見えない、という感じ。
(難しそうなところを読み飛ばしたせいかもしれないが・・・)
 
ではこの本は読む価値がないのか、と言えばそんなことはないのである!
 
ひとつは、「テクノロジーを使った社会制度の進化」はこれからの重要テーマであり、ここで紹介されている制度は、それを考えていく土台になるから。
 
もうひとつは、筆者もいうように「アクティビストに読まれ」、その背中を押す本だからである。
誤解を恐れずに言えば、PICSYも伝播委任投票システムよりもこの身体を押される感じ、刺激感の方が「はるかに大事」だと思う。
清水健という個人の「長きに渡る思考と行動」に触れることで、読者の頭と身体が触発されるのだ
少なくとも僕は強い刺激を受けた。
 
ここから受け取るべきは、閉塞感が強い時代の中でも社会改革は実現可能だと認識すること。
その改革に対して、半歩でも前に進める具体的行動をとる人間がすぐそばに存在すること。
 
ちょっと精神論的なことを書きましたが、社会変革を可能だと認識することは、
われわれの日々の小さな仕事レベルでも何かを変えることになる、と思う。    ・・・たぶん。
 
 
ちょっと引いた目線でみると、
これからしばらく、「つながり社会化」と「評価経済化」は、緩やかに少しずつ、進んでいくだろう。
だが、ある日、清水が提案するような新制度が導入されると、その進行は急加速する。 そして、それはいつおこってもおかしくないのだ。
 
その時には、「評価」の形態も意味も、今とは変わってしまっているだろう。
具体的なことは、僕ごときにはまったくわからないが、おそらくそれは、WEB上に永久保存されたログによって使ったものになるのであはないだろうか。
アメリカでは、信頼を可視化するためのシステムもいろいろ試行錯誤されているようだし。
 
また、一方、「つながり社会化」にはマイナスの面もある。
 
なめらか、つながり、関係性と言えば聞こえはいい。しかしそれは裏返せばべたべたしたしつこいしがらみでもある。本書は実は閉鎖的で息苦しい村社会(悪い意味で)を電子的に再構築しようとする反動的な試みでもある。(中略) 実際に人々はそんな社会を望んでいるのか? (山形浩生 経済ブログより)
 
ネットというデータを完全に消去できない「永久記録社会」の中で、人の評価が見えるようになることは、一度の失敗も許されない息苦しい社会になりかねない。
「受け取るものがあれば、差し出すものがなくてはならない。(村上春樹 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 より)」のである。
 
まとめると、
これからの社会変化に向けて、僕たちは自分の評価につながる何かをweb上にストックしていった方がよさそう。
それにはリスクもある。ただし、ストックしないことにもリスクがある。
ということ。
当たり前ですけど。
 
 
という認識のもと、このブログは、僕としては比較的ちゃんと書こうと思っている。(この忙しい中、これを書くのに4時間ぐらいかかってます)
 
今日はここまで!
 
tanakata11

 

なめらかな社会とその敵

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評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

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